思い出のエピソード

古川展生 (チェロ)

特別な音楽祭

宮崎国際音楽祭20周年、誠におめでとうございます! この音楽祭は僕にとっても極めて特別なものであったと思っています。この音楽祭とともに成長させていただいていると言っても過言ではありません。
まだ大学4年だった僕に、徳永先生が声をかけてくださったのが、もう20年も前だと思うと感慨深いものがあります。
その後も、留学帰国直後に、ストリングカルテットアルコで講習会にも参加させていただ、東京カルテットに素晴らしいレッスンを受けた事、スターン氏をはじめとするワールドクラスの偉大な演奏家の驚異的とも言える演奏を間近で体験させていただいた事など、思い出はつきません。
今でも、毎年この音楽祭に参加させていただける事が楽しみでなりません。
この20年という節目を経て、この音楽祭が、日本を、いや世界を代表する音楽祭として続いていく事を、この音楽祭の一人のファンとして願っています。

高橋 敦 (トランペット)

僕を育ててくれた音楽祭

宮崎国際音楽祭20周年おめでとうございます。宮崎国際音楽祭は僕にとって、とても大切な家族のような存在です。初めて参加させていただいた時、僕はまだ大学を卒業したばかりの頃でした。音楽家として、これからどのように生きて行けるのかまだわからない自分ではありましたが、参加させていただいたシーガイア多目的広場でのブラスアンサンブルの演奏会は、今でも鮮明に記憶に残っています。そして、青く広がる空、輝かしくふり注ぐ太陽、清々しい春の風、日本海と北アルプスで育った僕にはどれを取っても新鮮で、宮崎が一瞬で大好きになりました。

以後、毎年のように参加させていただき、オーケストラ、室内楽を通してバロックからコンテンポラリーまで色んな作品を経験し、また世界を代表する素晴らしい名手たちとの共演で、多くのことを学びました。その貴重な経験があったからこそ、僕は今まで音楽家として頑張って来られたのだと思います。それから、毎年参加させていただき感じることが他にもあります。それは宮崎の皆さんの温かい人柄と、日本一の豊かな食材です。このような宮崎の素晴らしいところに触れていつも感じることは、この音楽祭は県民の皆さんに愛されている素敵な音楽祭だということです。

音楽祭を心から応援してくださっている方々、西栄寿司の大将、渡邊又見さんもその一人でした。とても陽気なお人柄で寿司職人としての腕前も抜群な方でしたので、多くの音楽祭メンバーが慕っていました。自分のお店にいらしたお客さんは勿論のこと、一緒に出かけても色んな方々に「国際音楽祭の…」と我々を紹介してくださり、多くの方々にこの音楽祭の素晴らしさを広めてくださいました。コンサートも必ず聴きにいらしてくださいました。肺疾患を患い入院されていた病院にお見舞いに行くと、病院内の患者さんや看護婦さんたちに「国際音楽祭の…」と走り回るように音楽祭のことを宣伝してくださいました。でもその時、実際は立ち上がるのも辛いほどの症状だったそうです。呼吸が出来なくなる病気なので、きっと喋るのも辛かったと思います。その時のことを思い出すと今でも涙が止まりません。今は音楽祭の期間中の空き時間には必ず、南部墓地公園に眠る大将に会いに行っています。

音楽祭20年、僕は本当に多くの方々と出会い、多くのことを経験し、多くの感銘を受けました。僕を育ててくれた音楽祭そして宮崎の方々に、これからも感謝の意を込めて恩返し出来たらと思います。そして、この素敵な音楽祭が50年、100年と続くことを心から願っています。

三界 秀実 (クラリネット)

一期一会の音楽祭

20周年おめでとうございます!

2002年に初めてこの素晴らしい音楽祭に参加させていただいてから、毎年宮崎に訪れることが出来ているのは本当にありがたいことです。徳永先生を始め、すべての関係者の方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
振り返ってみて、素晴らしいアーティスト達とのステージはどれも思い出深いものでした。
特にジュリアードカルテットが来日して、シューベルトの八重奏曲を共演できたことは幸運なことで、とても感激したのを覚えています。長年の積み重ねの上に成り立っている、彼らのアンサンブルには衝撃を受けました。メンバーの間で強力な電波がひっきりなしに飛び交っているようで、一音発するだけで瞬時に密度の濃い情報が次々と行き交う、とてつもない空気感に息を飲んだのが昨日のことのようです。
音楽祭ではどの演奏会も一期一会の機会で、普段なかなか味わうことのできない刺激を受けることができる場でもあります。この幸せを噛みしめつつ、また今年宮崎でどんなことが待っているのか、わくわくしています。

漆原 啓子 (ヴァイオリン)

音楽祭での忘れられない出会い

20年間、皆勤賞で参加してきた宮崎国際音楽祭には、数え切れないほどの思い出、そして、一人では経験し得なかった貴重な時間が詰まっています。
素晴らしいアーティストに出会うことで、どれだけ自分が成長できたことか…。
感謝の言葉しかありません。

宮崎国際音楽祭に参加していたからこそ出会えた、偉大なアーティストたち。

そのお一人、アイザック・スターン氏。
20年ほど前(まだ私が若かった頃!)のこと、ゲネプロの際にステージでレッスンをしてくださいました。(共演者の上村昇さんがスターン氏に「ゲネプロを聞いて欲しい」とお願いしたところ、快く引き受けてくださったのです!)
本当に熱心に指導してくださり、忘れることはできません。当時教わった「シューベルト:ピアノ三重奏曲」の“スペシャル・指使い”は、今でも、演奏するときに使っています。そして、シューベルトを演奏するたびに、スターン氏のことを思い出すのです。

また、ピンカス・ズーカーマン氏は、徳永二男先生と私が廊下で話しをしていたときにたまたま通りがかり、二男先生のストラディヴァリウスを借りて、急に演奏し始めました。
そして「ストラドはこういう風に弾くんだよね!」と言って、二男先生の楽器を使って音を聴かせてくださり、何と、ボーイングのレッスンまでしてくださいました。

そして、ジュリアン・ラクリン氏は、楽譜をどう読んで弾くのかをお話してくださったことがあります。ラクリン氏が、「僕は考えながら弾くのが好きなんだよ」とおっしゃっていたのが印象的です。
素晴らしい出会いと経験はまだまだありますが、徳永二男先生のお人柄、そして溢れるパワーに、演奏家がひきつけられているのだと思っています。
オーケストラ・メンバーとして二男先生のお隣で演奏するときも、お話をしているときも、いつでも、二男先生の温かさと音楽への情熱を感じます。

ここでの素晴らしい出来事は、いつでも偶然に起こりました。
しかしそれは、ここに素晴らしい出来事を呼び込む強い力と、音楽を愛する人たちの思いが溢れているからではないでしょうか。
20回もの間、続けて参加することができたことを誇りに思います。

最後に、スターン氏がおっしゃった忘れられない言葉があります。
「演奏家が客席に下りては決していけない。聴衆にこちらに来てもらう演奏をしなさい。でなければ、“ショー”になってしまう。」
これは、私の演奏家人生を支えてきた言葉です。これからも忘れることはありません。
これからのさらなるご発展をお祈り申し上げますとともに、永く、宮崎の皆さん、全国の音楽ファンに愛される音楽祭で在り続けることを願っております。

毛利 文香 (ヴァイオリン)

音楽祭は学べる場所

私は、2011年から毎年、音楽祭の教育プログラムの1つ、ミュージックアカデミーに参加させていただいていますが、毎回本当にたくさんのことを学ぶことができ、とても充実しています。このアカデミーは、特に先生方と受講生との距離が近く、先生方はいつでも質問に答えてくださったりアドバイスしてくださるので、自分の課題を見つけ、改善していくことができる素晴らしい機会だと思います。
そして、私は、2011年に初めて宮崎国際音楽祭の新星たちのコンサートに、出演させていただきました。アイザックスターンホールの素晴らしい響きと、聴衆の皆様の温かさは今でも心に残っています。
また、音楽祭に出演されていた、ズーカーマンさんや諏訪内さんをはじめとする素晴らしい音楽家の方たちの華やかさはとても印象的でした。
これからも末長くこの素晴らしいアカデミーと音楽祭が続いていくことをお祈りしております!

大森 茉令 (愛知県)

スターン先生との思い出

スターン先生の手はとても大きく、あたたかでした。
小学校5年生だった私は、幸いにも音楽祭の公開レッスンの受講生となり、翌年も含めて2回、スターン先生にヴァイオリンのご指導をいただきました。その時のことを今でも鮮明に覚えています。当時の私は弾くだけで精一杯で、無我夢中のうちに時間が経っていました。
スターン先生は、肩や腕を持ちながら楽器の構え方や弓の持ち方をご指導してくださり、特に音色を追求すること、音と音のつながり、音楽を通して心を伝えることの大切さを繰り返しおっしゃっていたのが、深く印象に残っています。

ヴァイオリニストを夢見ていた私でしたが、現在は医師として病院に勤務しています。
ステージに立つときは、スターン先生の言葉を思い出し、嬉しいときも苦しいときも音楽と共に人生を歩んでいける喜びを、精一杯表現したいと思っています。

後藤 雄一 (宮崎市)

アイザック・スターンさんとの思い出

私とアイザック・スターンさんとの出会いは、第1回音楽祭です。当時私は、シーガイアホテルオーシャン45、和食料理「花洛」に勤務しておりました。
第1回音楽祭開催時に、事務局の方から「“アイザック・スターン氏”が宮崎へ来られます。スターンさんはうどんが大好物なので、目の前で手打ちうどんを作ってほしい。」との依頼がありました。失礼な話ではありますが、その当時私はアイザック・スターン氏のことは全く存じ上げていませんでした。最初はお断りしましたが、和食料理人としてやるべき仕事として依頼を受けました。

当日は、事務局の方や周りがピリピリしているので私も緊張しましたが、さすが世界の巨匠といわれる人は凄い方でした。私のことを職人として接して下さり、第一声で私と日本に敬意を払い、日本の最高のお酒をオーダーされ、まずは日本酒で乾杯、その後「私の国のウオッカで」と再度乾杯をされました。私もこれまで世界のVIPのお世話をしてきましたが、これほど1人の職人として接して下さった方は初めてでした。これぞ一流のジェントルマンだと感激しました。
その日は、巨匠の目の前でうどんを打ち召し上がっていただき、最高に喜んでいただきました。その時のリラックスされたスターンさんを今でも思い出します。それから7年間、毎年音楽祭の度にお食事のお世話をさせていただきました。一度お部屋に呼ばれたことがあり、その時は記念にと、いつも音合わせに使用しているCDへサインをし、プレゼントとして頂きました。これは私の宝物になっています。

スターンさんが亡くなられた後、コンサートホールが「アイザック・スターンホール」と命名され、私もホールの近くにて、和食の店「創作料理ゆう」を始めました。ホールの方を見ると、今は亡きスターンさんが思い出され、いつかまた逢えるような不思議な気持ちになります。店では頂いたCDが一日中流れています。

坂本 由起子 (宮崎市)

懐かしい第1回音楽祭

「宮崎は、アイザック・スターンのヴァイオリンで春が来ます」
これは手元にある「宮崎国際室内楽音楽祭 1st MIYAZAKI MUSIC FESTIVAL」のリーフレットに踊る文字です。当時の音楽祭関連の新聞の切り抜きもすっかりセピア色に変わっています。あれからもう20年が経つのですね。
陸の孤島の宮崎で、元N響ソロ・コンサートマスターの徳永さん率いる音楽祭が開催されると聞き、歓声を上げたのがつい昨日の事のようです。私は今、記念すべき第1回の模様をラジオから録音したカセットテープを聴きながらこの文章を綴っています。
N響でさえレッスンをお願いしたことのないと言われたヴァイオリンの神様・スターンさんの演奏の数々。中でも心に残っているのは「ブラームス 弦楽六重奏曲第2番」です。ただ当時のプログラムやリーフレットには「弦楽六重奏曲第1番」とあるのですが。
徳永さんがラジオ内で「日本人演奏家は第1番だと思っていた。」と言われています。スターンさんは「第2番」を演奏するのだと思っていらっしゃったのですね。後日談で、変更に際し、楽譜を県内の楽団を含めたあらゆるところに手配を掛け「第2番」が無事に開催されたと聞きました。

さらに演奏終了後、スターンさんが「来年は第1番をやらなきゃね」つまり「来年も宮崎に来るよ」と言われた、ということも嬉しく覚えています。
この「第2番」は、嬉しくも悲しくも、コンサートホールが「アイザックスターンホール」と命名される事になる縁結びの曲だったのですね。
ラジオの中の徳永さんが第1回の演奏会を振り返り「来年、再来年とずっと続けて行こう、そしてこれが世界の宮崎の音楽祭になるといいな、と思っている」と言われています。
そんな徳永さんに「2015年には第20回の成人式を迎えるのですよ」と耳打ちしたい思いです。
音楽の咲く季節まであと少し。毎年遠路はるばるお越し下さる演奏家の皆さまに感謝しながら、その日を心待ちにしています。

山田 勝史 (高鍋町)

今年もオペラ公演が楽しみ

県立芸術劇場が建設されていた頃、近くに住んでいたことも手伝って、会場付近にはより親しみを感じています。
なんと本音楽祭は、もう20回目を迎えたのですね。おめでとうございます。
さて、その中から具体的な思い出となると、やはり大好きなオペラ(アリア・演奏会形式)を上げざるを得ません。
あの平成25年「華麗なるオペラの世界」で聴いた福井敬氏によるヴェルディ作曲「リゴレット」より“女心の歌”に加えて、翌26年「情熱のオペラ」~カルメンから~での彼の数々の絶唱…。最上階まで届けと歌い上げ、如何でしたか?とばかりに高々と挙げられた右上腕。

今年もプッチーニ作曲「トゥーランドット」で彼のカラフ役を楽しめるとのことですから、これは本当に「もう堪りません」です。

山本 友英 (宮崎市)

素晴らしい演奏と、海外の演奏家との楽しい交流

宮崎国際音楽祭の沢山の演奏会の中から、特に、私の心に残っている音楽は、まず、ズーカーマン氏と徳永氏の2名が演奏しましたバッハ作曲の二つのヴァイオリンのための協奏曲です(第8回)。第3楽章のカノン風のソロパートの演奏は、共演というより競演という感じで実に見事でした。第9回から出演されたシャルル・デュトワ氏は、フランスやロシヤの音楽を指揮されましたが、私が驚いたのは、ベートーベンの英雄交響曲の第2楽章です。冒頭の第一ヴァイオリンの荘重な葬送行進曲が8小節続いて、その旋律が第一オーボエに引き継がれます。その時の最初の和音を受け持つ3本のホルンのやや強い響きによって、葬送の悲しみが一層深く感じられました。更に、ウイーンフィルの第一コンサートマスターのキユッヒル氏が、コンサートマスターを務め、指揮者なしで演奏されたモーツアルトの交響曲第40番ト短調は、良く統一されて胸に迫る音楽でした。

演奏会が終わって、シェラトンホテルでの歓迎レセプションでも楽しい想い出があります。シベリアのノボシビルスクから来られた若い女性のヴァイオリン奏者に「宮崎の自然環境はいかがですか」と尋ねますと「アメージング」と返ってきました。東欧から来られた男性のヴァイオリン奏者が、「おー、ボロデイン」と言って私に歩み寄ってくれました。近くで食事していた宮崎市の女性の方が、彼に私の職業を伝えたようでした。私は、握手しながら「今朝ラジオでボロデインの第二交響曲を聴きました」と言いますと、二人で握手した手を上下に振りながら、「ジャーン、ジャジャジャ・・・」と冒頭の7小節の弦楽器の音を声にして喜び合いました。

宮崎国際音楽祭が、これまで築き上げた伝統を受け継いで、更に発展してゆくことを、私は心から願っています。

小西 宏子 (都城市)

懐かしいスターンさん

上京して初めて手にした洋盤がISAAC・STERN・チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」だった。
昭和30年代の半ば、不馴れな東京で、特に季節が晩秋へ移るころのメランコリーの中で心癒やされた第二楽章。
そのスターンさんの来日があって、プレイガイドに徹夜で並んだ時のこと、アイザックスターンと耳にした私は、え!?思い入れのLP盤のジャケットのISAACをイサークと勝手に呼んでいた、笑い話―。
その夜のプログラムにもチャイコフスキーがあった。若いスターンさんに、ウクライナの野を通る風を聴いた、第二楽章―。
美しい弦の紡ぎ人は、やっぱり私の中ではイサークさんであるような・・・・。
あれから35年もの時が過ぎて、宮崎国際室内楽音楽祭で再びあの弦に出会えたのは、思いがけない幸運だった。美しい白髪に過ぎた歳月を思いながら、モーツァルトの「ピアノ四重奏」の明るい調性に浸った夜、そしてフランクのソナタ・・・・・又次の5月を待ちながらすっかり身近になったスターンさん、至福の時間をありがとうございました。
ニューヨークに眠られるスターンさん、時折、スラブの風の塔の並んだLPのジャケットにその生地ウクライナを重ねながら、懐かしんでいます。

松下 潤治良 (宮崎市)

「宮崎国際音楽祭」への思い

宮崎県では毎年、新緑が鮮やかで花々が美しい4月末から5月の中まで、県立芸術劇場を中心に「宮崎国際音楽祭」が続きます。
故アイザック・スターンなど国内外から毎年、多くの超一流のクラシック音楽家を招いて開催されてきた、この演奏会も今年で20回目。今では宮崎県の文化的風物詩として定着しています。今年は、4月29日の宮崎市街でのストリート音楽祭を皮切りに5月17日まで室内楽や交響曲などの魅力あふれるプログラムが組まれています。

さて、私がこの音楽祭の存在を知ったのは延岡にいた15年ほど前の頃です。クラシック音楽に造詣が深く、毎年この音楽会にご夫婦で出かけられていた先輩Mさんのお宅に夫婦で伺うようになったのがきっかけでした。その後、宮崎市に移住してからは、この季節はご夫婦にお会いし楽しみを共にする「約束の季節」となりました。
しかし、敬愛するMさんは3年前の音楽祭を前に病を得られ、お会いすることは、かなわなくなりました。その後は「国際音楽祭」が訪れるたびに、誠実なMさんの姿が目に浮かんでくる「思い出の季節」へと変わりました。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。この季節には毎年、変わることなく花々が咲き乱れますが、コンサート会場を埋める聴衆の一人一人は年々少しずつ代わっているのでしょう。

それはそれとして、Mさんがこよなく愛された「宮崎国際音楽祭」。本県の文化事業の中核として末永く続いていくことを切に願っています。

川手 毬愛 (宮崎市)

合唱参加で感動体験

私の思い出の国際音楽祭は、第19回のオペラ「カルメン」で、県内の高校生とコーラス隊をしたことです。100人を超える大合唱では、ピアノとフォルテ、コミカルとシリアスなどのギャップが大きく、1年生だった私は練習のたびに圧倒されるばかりでした。その後も実際にカルメンを観たりオーケストラやソロとの合わせを重ねたりして、舞台への気持ちを高めていきました。

迎えた春の本番では、広上淳一氏の指揮によって繰り出される「カルメン」の強烈さに会場中が魅了されていたようでした。大迫力のオーケストラ、ソリストの方々の美しいドイツ語、場面を彩る高校生コーラス、さらには照明、ホール、観客の緊張感までもが、それぞれの輝きをそのままに、見事に協演していました。本番終了終、長い練習の間に仲良くなった他校生たちと口々に感動を語り合ったのも良い思い出です。

私たちのような高校生がプロの音楽家と同じ舞台に立つことができ、あれほどまでにホールのすべてが一つになれる音楽祭が、宮崎にあることを誇らしく思います。これから私が県外の大学へ行っても、春に帰ってくれば、宮崎国際音楽祭の音色が聞こえてくることを祈っています。

ダブルM (宮崎市)

スターンの思い出

宮崎で超一流の演奏者を迎え世界の音が聴ける夢の祭典、クラシックファンにとっては嬉しい限りである。
1996年春のある日、大阪在住の私に宮崎の妹から電話「姉さんアイザックスターン知ってる?」「ヴァイオリンの神様のスターン?」「そう、宮崎で演奏会あるのよ」「えっ、本当?大阪でも演奏会なかなか無いし高いよ、生聴いたことないのよ。公演できるホールはあるの?」

1993年に県立芸術劇場が開館したことを知らなかった。残念ながら第1回国際室内楽音楽祭には行けなかった。第2回から妹にプログラムを聴きチケット購入を依頼、音楽祭の期間は休暇をとりコンサートのついでに里帰りとした。
初めて見るコンサートホールの立派さに驚いた。
「美しく豊かな響きと残響感を両立させたクラシック音楽専用のホールで、形状はシューボックスタイプと呼ばれるもの」だという事。このホールで聴くスターンの奏でる繊細で豊かなヴァイオリンの音色にただただ感動。感動に満ちたひと時であった。

2000年に帰宮したので音楽祭はより身近なものとなり、第5回、第6回はスターンの公演は全て行った。若者の公開レッスンでは厳しくも優しく指導「技術だけでなく心が大事」と染み渡るような声で言われていたのを思い出します。笑顔も素敵でした。
ご自分の演奏がない日には座席で演奏を聴き、休憩時間には隣席の方々と挨拶、気軽に握手に応えていらした。一度は間近な席にいらして胸がときめきました。本当に魅力ある方でした。

突然の訃報に残念でなりませんでした。今、第4回のプログラムを見るとアンコールが「愛の悲しみ」「ロマンス」であった事を思い出します。スターン亡き後も超一流の演奏家が集い素晴らしい音楽祭が続いている。長年にわたり関わってくださっている徳永二男氏の音楽に対する思いに心から感謝です。これからも宮崎をよろしくお願いします。

やぶ椿 (延岡市)

音楽祭に思う

ある時、夫がレコードを出してきて「これから同じ曲を2枚かけるからどちらがよいか演奏者の名前は聞かないで聴いてみて」と云った。
まず、1枚目の1楽章を聴いた。2枚目に移って1楽章まで聴いた時に、針を上げようとした夫の手を遮って、もう少し聴かせてと2楽章の途中まで聴いた。1枚目はこれ以上の演奏があるだろうかと思わせる程完璧なものだった。2枚目のものは同じ曲でも演奏者によって受ける印象が違うものだと感じたが、いい演奏だった。

私はやや間をおいて、2枚目の方が良かったと答えた。前者はH氏で後者はスターンさんだった。スターンさんの演奏は作曲者が曲に込めた魂というか情熱が心のひだに静かに浸潤していくような感じがしたと夫に伝えた。

スターンさんの訃報を聞いて間もない頃だったので話している内に涙が出た。夫は黙ってうなずいてくれた。音楽祭のプログラム、スペシャルプログラム共に魅力的な曲や超一流の演奏者が揃っていて毎年チケットを決めるのに苦労したが、その他ですばらしいのは教育プログラムで子供のための音楽会と講習生のためのレッスンで、表現力を育てる指導は、演奏者を志す若者たちにどれ程大きな影響を与えていることかと思う。

私が子供の頃は、家に沢山のSPのクラシックレコードがあって、手まわしの蓄音機で兄弟姉妹が勝手にかけていたので、まるでBGMのような感覚で浅く広く聴いていた。だから作曲家の心や演奏会の表現力まで注意して聴いたことはなかった。私も子供の頃に「子供のための音楽会」のような一流の演奏がきけるものに出会いたかったと思う。講習生の中からは、国内外のコンサートで入賞し、オーケストラのメンバーとして、すでに活躍している方もあると聞いて、すばらしいことだと思う。

スターンさんが亡くなられた後、デュトワさんに引き継がれ世界に誇れる超一流の音楽祭となり、すばらしい演奏を聴かせていただいて、沢山の感動を得られたことを心から嬉しく思っている。

前田 晶子 (宮崎市)

劇場で母と過ごす幸せな時間

チェロ響きに母の身体がピクンと動いた。
あれは結婚してすぐの年だから、2回目の音楽祭。
「宮崎で音楽祭やっているからおいでよ!!」と、神奈川に住む母を誘った。引っ越したばかりのアパートに1週間滞在し、今日はモーツァルト、次はヴィヴァルディとコンサートと三昧。

「ちょっと、おさんどんする位で毎日のようにコンサートに行けるなんて夢のようだわ」と母は言った。クラッシック音楽が好きな母だが、それはラジオから流れてくる音楽。質素な生活を送ってきた母にとって、クラッシックコンサートなんて夢のまた夢。…だったのだが…生の音色にすっかり心を奪われていた。

中でもチェロの音色に魅せられていたようで、自然に体が動いていた。温かく、けれど時に胸をえぐられるような音色。
私だって!仕事から帰ってくると掃除が行き届き、温かいご飯があって…遠く離れて住む母との夢のような1週間だった。
今は近くの町に住む母。「今年はどのコンサートに行きたい?遠慮しなくていいのよ。」今でも大した親孝行は出来ないでいるが、劇場で母と一緒に過ごす時間は、この上なく幸せな時間だ。

T・T (宮崎市)

「宮崎の春の楽しみ」

「宮崎に、すごいホールができたんだって。」から始まった、私の音楽祭。
それまで、両親がレコードや、ラジオ、テレビで聴いているのを、そばで聴いていた程度の私でしたが、初めて自分でチケットを購入した際は、前もってCDで曲を聴き、楽章間や曲全体を予習!正装をしてコンサートに臨みました。
いざ入場!!ホールの形、ステージ、シャンデリア、匂い、雰囲気、演奏家の衣装、汗、息づかい、まっすぐにおしよせてくる音、拍手、歓声…感動で泣きそうに…。

現在、私の子供も、そろそろその感動も理解できる頃かな?と考えております。
ひとりでも多くの方々に、鳥肌の立つほどの感動を経験してほしいですし、それによって宮崎の芸術がレベルアップしていくことを心より願っています。

島田 真千子 (ヴァイオリニスト/第4回・第5回音楽祭の講習会受講生)

アイザックスターン先生との日々

1999年と2000年の宮崎国際室内楽音楽祭で、2週間毎日アイザックスターン先生に指導を受け、時を共に過ごすという幸せな経験を授かりました。
自分とは生きている世界が違い、直接お会い出来る機会など絶対にないと思っていた遠い存在、ステージ上でしか拝見した事のない巨匠スターン氏との初めて面会は、期待と不安でいっぱい。大きな身体と厳しい人格を想像し緊張しましたが、実際お目にかかるスターン先生は小柄な身体と温かい笑顔と、その場を大きく包み込むようなお人柄。ほっとしたのをよく覚えています。ですが音楽の事となると一転、そのギラギラした鷲のような眼は光と鋭さを放ち、小柄な身体から溢れ出る情熱と、確固たる理念と魂のパワーに、ただただ打ちのめされ圧倒され続けました。
実際にスターン先生と過ごした2週間は、寝ても覚めても室内楽漬けの毎日。メンデルスゾーン作曲のピアノトリオ1番の1楽章だけを、必死で演奏しました。
あるレッスンでの事。
「どうしてこのフレーズをそう弾くの?本当にそう弾きたいのか?一度、楽器を置いて歌ってみろ!」たくさんの聴講者と聴衆の前で、声を出して歌うなんて恥ずかしかった。蚊の鳴くような声で何とか歌うと、
「もっと大きな声で!」 怒鳴られ、はっと気を取り直し、思いを込めてフレーズを考え、出ない声を頑張って出して歌った。
「そうやって楽器で弾いてみなさい。」 弓の位置も指使いも気にせず、今自分が声に出したように、心の声だけを音にした。その瞬間、

「That ’s it !」  (そうだ、それだ !)

あのアイザックスターンが、笑顔で大声で叫ぶのを聞きました。その後すぐ、笑顔を消し鋭い眼差しで「いいかMachiko、自分に手錠や足かせをしてはいけない。指使いや弓順など技術にとらわれることなく、いつも君は自由で、自分の心の通りに歌うべきだ。」今でもその言葉と声と眼光が私の中にしっかりと残っています。 レッスンで先生はいつも“自分でしか自分を教えられない”と仰られました。トリオ皆で全ての音について自問自答し、感情や考えを絞り出して練習に没頭しました。
最後の成果発表会で弾いた際は、本当に一音一音に生死をかけるような緊張感。全ての音にあんなに思いを込めて弾く事など、それまで一度もありませんでした。
もう一つ忘れられないのが、スターン先生が最後に弾いたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲3番。体調が悪く歩く事さえもままならなかった先生から、最後で最高のギフトを頂きました。一音一音が心に伝わり、溌剌とした強く優しい音楽が流れ、霊感と自由に満ち溢れ、輝く深い音で朗々と歌いながら何かを語りかける。いつも羨望と驚嘆と憧れを持って聴いて来た、巨匠アイザックスターンの神髄に触れた最後の時でした。
80歳を超えて尚、ヴァイオリニストとして必要な技術を全て備え、それを越えて音楽だけを歌うスターン先生の姿に、人間の信念の強さを見せて頂きました。
15年が経っても、スターン先生と過ごした宮崎での日々は色褪せません。かけがえのない宝物のような2年間でした。
このような貴重な機会を与えて下さった、音楽監督の徳永二男先生には心から感謝しております。また、音楽祭を支えて来られた皆様、宮崎県民や奏者の皆様に敬意を表し、これからの音楽祭のますますのご発展を祈っております。

日高 紀志子 (宮崎市)

宮崎国際音楽祭と私

2月に父が亡くなってすぐ、第一回の音楽祭だった。服喪中だしと、さんざん迷った末、きっと父は「行って来い」と言うだろうと勝手な言い訳を心にして、行った。
前から5列目。終わって、スターンさんが投げた花束が、私の手に。大切に持っていたその花も、昨年、とうとうホロホロと散ってしまった。
初期の頃、席が隣同志で親しくなった延岡の御夫妻と、帰りに会食するのが、いつしかコンサートのもう一つの楽しみとなった。
ある年、若者達の練習風景とそのコンサートに行って、韓国の若者とスターンさんの情熱に痛く感動し、リー先生を通して手紙とささやかなプレゼントをした。後日、その中の1人から、手紙と写真立てが送ってきた。
また、私は宮崎音楽祭があるのも、青木さん、徳永さんは勿論、川崎雅夫さんの力も大きいと日頃思っているので、N・Yに行った折、ジュリアード音楽院を探し歩き、感謝の心を込めて、その階段を上がってみたのだった。
ある時、劇場の広報誌に、私の写真を使いたいと言われた。表紙に名前が出るとの事で、渋々承諾したところ、朝日新聞社福岡支局にいる親友の娘さんが、その表紙を見たと知らせて来たとの事。思わぬ所で、そんな事もあった。
アンケートに、ずっと、マイスキーと書き続けていた。叶わぬ夢と思いながら…。
それが、現実と知った時、本当に夢かと思った。
そして、その時が来た。ステージのマイスキーは神だった。
その後、CDサインの折、話もした。さだまさしが、いつも言っている「大きな夢はかなう!」は、本当だったと実感した。そして、今年。20回目の記念すべきこのコンサートに、又、マイスキーさんが来て下さるとは。しかも、親子揃って。
宮崎の人は、世界一の幸せ者。こんなすばらしい音楽を、毎年身近で聴けるのだから。
宮崎音楽祭が、ずっと、続きますように。

熱田 聡 (福岡県)

楽譜の神様のいたずら

私にとって忘れられない音楽祭の思い出は、以前、青木賢児名誉館長も語られたことのある、第1回宮崎国際室内楽音楽祭で起きた楽譜にまつわる出来事でしょうか。これだけはおそらく、他の方は誰も経験していないことでしょうから。

音楽祭最終日の1~2日前だったかと思います。職場で仕事をしていると、劇場の職員の方から電話がありました。話を聞くと、「ブラームスの(弦楽六重奏曲)第2番の楽譜を持っていないか。」とのこと。どうも劇場側とスターン氏との間で行き違いがあったらしく、最終日のプログラムのフィナーレが第1番から第2番へ変更されることになったものの、パート譜がないため、方々探し回っておられたようです。そしで、私が持っているのではないか、という話がどこかで出たらしいのです。

当時、私は学生時代に始めたヴィオラの影響で、室内楽の楽譜を少しずつ集め始めていたところでした。ブラームスの弦楽六重奏曲も1冊は持っていることは覚えていましたが、その楽譜が第1番なのか、第2番なのか、自宅に帰って確認するまでは正直不安でした。自宅に戻って書棚を探し、ペータース版の作品36があった時はさすがにほっとしたことを今でも覚えています(この時、もし私の持っていた弦楽六重奏曲の楽譜が第1番だったら、音楽祭はどうなったのだろうか、とも思ったのですが・・・。)。

もちろん、当日のコンサートは、私も聴衆の1人としてその場にいました。「ああ、自分の楽譜で、この音楽祭もようやく無事に幕を閉じる・・・。」と安堵していた第4楽章の途中、スターン氏の楽器に、あの「アクシデント」が起きたのです。
本当に最後までハラハラさせる第1回でしたが、今振り返って見ると、ひょっとするとあれは、楽譜の「神様」が、疲れの見えていたスターン氏に「少し休憩したらどう?」と、優しくも、ちょっとしたいたずらをなさったのでは?と思い始めているところです。

姫野 まり子 (門川町)

アン・アキコ・マイヤースさんとの忘れられない思い出

1998年の春、門川町の文化会館の周辺は、白とマンダリンオレンジツートンカラーに「f(フォルテ)」のマークの入ったフラッグが風になびいていました。
この年の5月11日、「宮崎国際室内楽音楽祭」のスペシャルプログラムとして門川にアン・アキコ・マイヤースさんのヴァイオリンリサイタルをプレゼントしていただきました。彼女のヴァイオリンの音色は 深みと優雅さが融合されていて、さらに容姿端麗である彼女の演奏は満席の聴衆を魅了する大変素晴らしい演奏でした。
そこでアン・アキコさんとの忘れられない思い出、エピソードがありましたのでご紹介させていただきます。
私には、二人の娘がいますが 二人共に忘れられない思い出となっています。
演奏会の当日、スタッフとして動いていた私に彼女が「ヘアースプレーを忘れてしまった!」と告げられました。その時、高校生だった長女が新体操の時に使用するセット用のヘアースプレーをお貸しし、片言の英語でお話しをさせていただきました。
また、5月15日は、アン・アキコさんの誕生日という情報を得ていた私は、我が家の次女も同じ誕生日でしたので、宮崎市での彼女の出演する演奏会に次女と同じバースデーケーキを手作りして担当の方にお渡ししました。そのコンサートの中でハッピーバースデーのメロディーが演奏され始め 二段の大きなケーキがステージ上に運ばれてきました。その時、私は赤面の至り状態でした。ところが、演奏会終了後、スタッフの方がいらして「ステージ上の大きなケーキは皆さんで食して、私の小さな手作りケーキをホテルに持って帰られました!」と聞かされ安心して帰路に着いたものでした。(美味しかったかしら...??)
また、翌年からこのご縁で門川町では3年連続して、徳永二男さん、渡辺玲子さん、川田知子さんをゲストとしてお迎えして、門川ミュージックフェスティバルを開催し、私たち地元の指導者は素晴らしい体験をさせていただきました。
宮崎国際音楽祭も第20回を迎えられ、プログラムのジャンルもますます広がってきていますのでとても楽しみです。宮崎国際音楽祭がより身近になって県民の皆さんがひとりでも多く興味をもって参加し広がる事を願っています。

平尾 章子 (奈良県生駒市)

宮崎国際音楽祭と父との思い出

奈良に住んで35年目の冬、初めて生まれ故郷の国際音楽祭のチケットを購入しました。第13回音楽祭のチョー・リャンリンの演奏会開演まじかの時、偶然に隣りの座席の半券を拾い、父の分まで買っていたかもしれないという奇妙な錯覚に陥りました。その時父は90歳、宮崎県立芸術劇場のすぐ近くの丸山町に住んでいました。急いで来るように電話をすると自転車ですぐに現れました。係りの方に無理をお願いして二人並んだ席を手配していただき、ヴァイオリンの名演奏を楽しむことができました。父と一緒に音楽演奏会を聴くのはそれが最初でしたが、最後でもありました。その父も今年97年の生涯を終えました。
その年にアイザックスターンホールで初めて見たパイプオルガンに魅せられて、私もいつかあの舞台に立ってみたいと思い、パイプオルガン・チェンバロ講習会に応募しました。何とか講習会に入れてもらい、大きな病気と闘いながら奈良と宮崎を何度も往復して、2年前無事に卒業することができました。その間、大変でしたが、楽しい思い出もいっぱいできました。父に発表会の舞台でのパイプオルガンの演奏を聴いてもらい、それも今では大切な思い出です。

北村 和夫 (宮崎市)

大震災の年の宮崎国際音楽祭

2011年3月11日、渋谷駅にいた。突然、大きな揺れが襲い、古い駅ビルはガタンガタンと唸りをあげた。思わず太い柱のある壁に身を寄せた。東日本大震災である。
オペラなどを楽しむため上京したが、来日していたフィレンチェ歌劇場は、福島原発が爆発の恐れがあるとのことで、イタリア本国からの帰国命令が出され「トスカ」を公演せずに帰ってしまった。
宮崎に戻ると、福島原発ではメルトダウンが発生した恐れがあり、大量の放射性物質が漏えいしているというニュースが連日放送されていた。このため、5月、福岡シンフォニーホールで公演予定のアンネ・ゾフィー・ムターのヴァイオリンリサイタルも中止になり、切符は払い戻された。

宮崎国際音楽祭の演奏予定者も辞退が相次ぎ、開催の自粛、公演の縮小の話もある中で、放射能の恐怖を乗り越えてズーカーマン氏、キュッヒル氏などが公演に駆けつけてくれた。
東日本の復興への願いを込めて第16回宮崎国際音楽祭は開催された。連日、アイザックスターンホールでは、ズーカーマンによるスターン譲りのスケールが大きく透明感のあるコダーイのヴァイオリンとチェロのための二重奏曲、諏訪内晶子の情感豊かで心に語りかけるブルッフのヴァイオリン協奏曲、そしてキュッヒルのヴァイオリンが響く天上の音楽を思わせるモーツァルトの交響曲などが演奏された。この芸術家たちの魂のこもった演奏は音楽の無限の力を示すものであり、人はともに助け合い生きていくというメッセージを強く感じさせるものだった。

今年は、ズーカーマン、マイスキー、ラクリン、諏訪内晶子などの心ときめく演奏者の協演で迎える。
前音楽監督だったシャルル・デュトワ氏が言われた「このすばらしい音楽祭を聴けることが、どんなに幸せなことかを実感してほしい」との言葉をかみしめている。

本田 紀子 (宮崎市)

素晴らしい音楽は心を揺さぶる

私と国際音楽祭の最初の出会いは、まさに20年前、第1回宮崎国際室内楽音楽祭でした。演奏家ではありませんが、音楽の仕事をしていた関係で、クラシックの演奏会には結構足を運んでいました。スケールの大きな音楽が好きで、オーケストラ中心に演奏会を選んでいて、室内楽は、どちらかというと苦手なくらいで、あまり興味がなく避けていました。でも、宮崎で国際的な演奏会があると聞き、また、『神の手』と言われた巨匠アイザック・スターン氏が来られるとなれば、行かない選択はないな、という思いでチケットを購入したのを覚えています。
記念すべき第1回の演奏会、演目はモーツァルト・ブラームス・フランクのヴァイオリンソナタ・・・私には、それまで全く縁のなかったプログラム。しかし演奏が始まると、そこには、スターン氏のヴァイオリンとブロンフマン氏のピアノが創り出す音楽の世界に引き込まれ、魅了されて涙している自分がいたのです。スターン氏のヴァイオリンには、今まで出会ったことのない、心の奥深くまで浸み込んでくる不思議なパワーを感じました。魂の力でしょうか。私に、室内楽という新たな楽しみが生まれた瞬間でした。
あれから20年、病気で行けなかった年を除き、毎年楽しみに聴かせていただいております。その間、何度涙したことか。素晴らしい音楽は、理屈抜きで人の心を揺さぶる力があることを、そのたびに感じています。