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コラム

第15回宮崎国際音楽祭に寄せて 音楽プロデューサー・浅岡寿雄

☆電子技術が進歩しても超えられない生演奏の「音」

最近はメディアが発達し、CDやDVDあるいはインターネットの配信などを通じて、いつでも芸術音楽にアクセスできる時代になりました。このような時代になると、生演奏に接する機会がどうしても遠のいてしまいます。しかしどんなにメディアの質が向上しても、生の演奏の肌合いを超えることができないのは事実です。

古楽器が奏でる柔らかい響き、名人の演奏する良く調律されたピアノの奥深い音色、また大編成オーケストラのクライマックスで聞こえてくる金管楽器の輝き。こうした「音」は、残念ながら電子技術がどんなに進歩しても、その格子の間から滑り落ちていってしまいます。それは「音」の響きだけでなく、その音によって表現される芸術そのものの欠落をも意味しています。ですから第一級のオーケストラを最高の状態で聴ける機会は、逃すことができないチャンスと言えるでしょう。

☆デュトワの十八番 ストラヴィンスキーの華麗なバレエ音楽

シャルル・デュトワは宮崎国際音楽祭のアーティスティック・ディレクターとして、今年で7年目になりますから、彼の音楽づくりは良く知られていますね。そのデュトワが今回は、首席指揮者をしているアメリカのフィラデルフィア管弦楽団を指揮して登場し、最も得意とする曲目のひとつであるストラヴィンスキーのバレエ音楽を指揮するのですから、期待は大いに高まります。

デュトワの演奏の特筆すべき点は、いかなるコンディションでも最高の集中力を本番で発揮することといえます。どんな大演奏家でも、生身の人間です。健康状態も含めて、演奏する時に最高の状態にあるとは限りません。演奏旅行のハードなスケジュールの途中で、疲労が頂点に達しているような時もあるでしょう。しかしデュトワはどんな時でも、一旦舞台に登り演奏に臨むときには別人のようになっています。1980年代から90年代数多くの優れたCDをリリースし、世界的に彼の存在は知られ、それらのCDは今日でもよく聴かれていますが、何と言ってもデュトワの真価は生の演奏にあるのです。

さてデュトワが最も得意とするストラヴィンスキーの作品、バレエ音楽「火の鳥」と「春の祭典」は、大編成オーケストラの機能を存分に発揮させた華麗な作品です。ストラヴィンスキーのバレエ音楽は1910年に「火の鳥」、11年に「ペトルーシュカ」、13年に「春の祭典」が完成されたことが、作品表で確認できます。20世紀を代表するバレエ音楽が一気に作られたわけですから、この時期ストラヴィンスキーの創作意欲が、いかに充実していたかが分かります。今年2010年は、これらの作品ができてから約100年が経過していることになります。20世紀を揺るがせた革命的な作品の完成も、1世紀も前のことなのです。

☆「火の鳥」の真価が発揮される1910年全曲版

「火の鳥」の1910年版は初演時に書かれた、大編成オーケストラのための全曲版です。「火の鳥」にはこの全曲版の他に、組曲の形に再構成された3種の組曲版も知られています。その中で比較的演奏される機会の多い第二次世界大戦後の1945年に編曲された組曲は、オーケストラの編成も縮小されていますし、全体もおよそ半分の長さにまとめられています。ですから「火の鳥」の真価は、やはり大編成の全曲版で最も発揮されるのです。またこの1945年版の組曲は、戦後の社会が経済的に困窮した時代に、楽器編成を縮小することによって演奏しやすくするために出版されたと一般には言われていますが、実はアメリカの著作権法に合わせて新たな編曲をワシントンの国会図書館に届ける必要が生じ、書き直したものなのです。すなわち芸術的な観点や時代の要請で編曲し直されたのではなく、著作権取得という経済的事情で作られたものであり、作品として「火の鳥」は何といってもこのオリジナル全曲版に勝るものはありません。

もう一曲の「春の祭典」は、デュトワのいわば十八番で「火の鳥」以上に期待できます。もう20年以上も前のことになりますが、1987年にデュトワがNHK交響楽団に客演指揮者として来日したとき、この「春の祭典」を取り上げました。その演奏は聴衆をそして楽員をも魅了したことは今でも語り継がれており、その後のN響との長い関係の始まりとなった曲でもあります。

☆バッハの音楽に現代楽器でどう迫るか― スターンが遺した道しるべ

アイザック・スターンは宮崎国際音楽祭の開始から5年間、高齢にもかかわらず音楽祭を引っ張って、数々の業績を残しました。独奏に、室内楽にそして、協奏曲のソリストとして活躍しましたが、なかでも注目されるのがスターンのバッハ演奏です。バイオリン協奏曲、2台のバイオリンのための協奏曲などで、スターンはバッハに対する演奏の取り組み方を示したのでした。

今日、バッハの音楽をはじめとするバロック音楽は、オリジナル楽器、すなわち古楽器による演奏が一般的になっており、もはや普通の管弦楽団などのレパートリーからは落ちてしまっている現状があります。しかし言うまでもなく、バッハの音楽の中には古(いにしえ)の響きを追求するだけでは到達できない、人類文化の遺産ともいうべき大きな世界が開けています。また小さな会場での演奏では、古楽器はその特性を十分発揮できますが、大きなスペースでの演奏では、やはり現代楽器での演奏が必要とされるのです。ですからバッハの音楽に現代楽器を使ってどのように迫るかという課題は、演奏家にとって大きな問題であり、スターンはそれに対する一つの方向を示していました。それはこの音楽祭にこれまで参加してきた日本の演奏家たちに、確実に引き継がれているに違いありません。

☆想像力を働かせながら聴きたい バッハの「ブランデンブルク協奏曲」

ブランデンブルク協奏曲は、大作曲家バッハがプロイセンのブランデンブルク辺境伯からの依頼で、辺境伯に捧げるためにまとめたもので、さまざまな様式の6曲の協奏曲で構成されています。いろいろな楽器が名人芸を披露するように書かれていますが、そうした部分は現代楽器で演奏すると、全体のバランスに疑問が残るところがあります。たとえば第2番では、弦楽器5部の合奏に加えて独奏のトランペット、フルート、オーボエ、バイオリンそれぞれ1本といった編成で作曲されています。このような作品では、バッハが作曲した当時の楽器ではどんな響きがしたか、想像力を働かせながら音楽の骨格をとらえることが、演奏家にも聴衆にも要求されます。さらに第4番や第5番ではバイオリンのソロが大活躍しますから、スターンが宮崎国際音楽祭に遺した、現代楽器によるバッハ演奏の伝統を感じとることができるでしょう。

☆冷戦の終結が現代音楽に与えた大きな影響

ところで1989年のベルリンの壁崩壊とともに冷戦が終結してから、はや20年以上の月日が経過しました。旧ソ連と東欧の社会主義国の消滅は、その後の世界政治や軍事バランスに大きな変化を与えたことはいうまでもありませんが、同時に芸術面に与えた影響も極めて大きいものがありました。音楽ではとりわけ現代音楽を支える層が、それまでの東西のどちら側からも消えていってしまったのです。アメリカを中心とした旧西側各国が、前衛音楽をいわば社会主義圏各国に対するショーウィンドーとして背後から援助したのに対し、ソ連を中心とした国々もそれに対抗して、各国の伝統を踏まえながら現代音楽の創造に力を貸していたからです。このようないわばイデオロギーの均衡が、社会の変化と同時に全く無くなってしまいました。

けれども私たちが200年前、100年前の音楽だけを心の糧として生きていくことはできません。いやそれは、あまりにも不健康です。かといって音楽の好みが、努力によって変えられるものでもありません。それをどのように埋め合わせていくかは、今日の作曲家、聴衆に与えられた大きな課題ともいえます。

☆ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」に注目

芸術音楽の伝統の地から離れたところで生まれてきた、アストル・ピアソラの音楽などへ関心をもつことは、こうした現代音楽の欠落を埋める一つの方法といえるかも知れません。アルゲリッチをはじめとする名演奏家たちが、1990年代の初頭からアンコール曲でピアソラの音楽を取り上げていたころ、ピアソラって誰なのだろうと思ったものでしたが、今やなくてはならない作曲家の一人として定着しています。ですからピアソラの代表作のひとつ「ブエノスアイレスの四季」は、あまり頻繁に演奏される曲ではないだけに、注目に値するものです。

☆興味深い メシアンと武満徹の代表作

やはり本格的な同時代の音楽にも耳を傾けたいものです。武満徹もオリヴィエ・メシアンも、評価の定まった20世紀の作曲家で、もはや決して今日の音楽とはいえません。しかし20世紀の後半、音楽の様式が難解になりがちな時代の中にあって、この2人の作曲家は時代思潮から外れずに、なおかつ平易さを失わなかった音楽家として特筆される存在です。武満は惜しくも創作の最も充実した時期に病に倒れましたが、戦後日本を代表する数多くの作品を残したのでした。1950年代後半から本格的に作品を発表していきましたが、彼の独自の個人様式のなかには、フランス的な要素が深く染み込んでおり、メシアンの影響も深く受けているだけに2人の代表作を同時に聴くのは、興味深いことです。

☆“若き巨匠”ジュリアン・ラクリンが初登場

音楽祭初登場のジュリアン・ラクリンは、今年36歳。バルト3国のひとつリトアニアの出身、ウィーンで学んだ現代の若手最有望株のバイオリニストです。今日では国際コンクールなどで優勝しても、若手のソリストが世に出てくるのは本当に困難な時代ですが、ラクリンはその実力とチャンスを生かして、確実に巨匠への道を歩んでいる数少ないバイオリニストといえるでしょう。

彼の名前が最初に国際的に知られたのは、EBU(ヨーロッパ放送連合)が主催している「ユーロビジョン・ヤング・ミュージシャンズ」で1988年に、グランプリを獲得したときでした。このコンクールは2年に一度ヨーロッパの主要都市で開催され、ヨーロッパ各国の放送局が推薦した才能ある若者が一堂に会してその技を競うもので、EBUの主催だけに本選の模様はテレビを通じて各国に生放送されるなど、インパクトの強いコンクールです。彼はそのころ、すなわち10代の後半から、早くもマゼルやメータといった大指揮者に注目されていました。

日本への登場はあまり知られていませんが、意外にも早く1993年の秋のことです。NHK交響楽団の招きで来日したラクリンは、ソリストとしてチャイコフスキーの協奏曲を弾いています。このときの19歳だったラクリンは、ひとことで言えば、堅実な技術をもった線の太いフレッシュなソリストといった感じでした。ラクリンはその後、海外の一流オーケストラのソリストとして度々来日するほか、同世代の優秀な音楽家とアンサンブルを組んで積極的に活動するなど、大きく成長し、今では最も注目されるバイオリニストの一人といえる存在になっています。

profile
あさおか としお
東京藝術大学大学院修了。
NHK音楽伝統芸能番組で音楽番組制作。
4年間NHK交響楽団演奏部長を務め、 現在NHKエンタープライズ勤務。 音楽プロデューサー。